2015年7月27日月曜日

相撲七大戦プレイバック

今年の七大戦は、8月23日に仙台市にて行われます。開催まであと1ヶ月を切りました。そこで、過去14回の相撲七大戦の結果を振り返ってみようと思います。まずは第一回から。

以前書いたとおり、相撲が七大戦に参加するきっかけは、2000年の名古屋大学相撲部の復活でした。この名大相撲部が音頭をとる形で相撲で七大戦を行うことになりました。2001年3月、名大相撲部が主管となり、まずは総合体育大会の七大戦とは別に独自で開催しました。

さて、実際に行われた相撲七大戦、とは言っても大阪大学には相撲部がなく、実際は六大学で行われました。また、北海道大学は正規の相撲部はなく、この時は学生寮の有志が集まっての参加でした。因みに北大は、このような形で国公立戦にもたまに出場しており、もともとそういった伝統というか気質というか、そのようなものがあったようです。その一方、主管の名古屋大学は、工学部のとある研究室のメンバーが集まってできたもので、この当時は大学院生中心ながら、20名以上の大所帯でエントリーしていました。

結果


名大は東大戦で1点取られた以外は全て5-0の完封勝利という圧勝劇。東大も、名大戦以外は5-0または4-1で他を圧倒。他の4大学は似たり寄ったりの成績でしたが、僅差で京大が3位に滑り込み。4位の北大、先に述べたとおりこの大会のために集められた急造相撲部でしたが、京大、東北大に勝ったりと健闘しました。東北と九大は、5人制の団体戦に3人で出場しており、まあそういう事です。これを書いている2015年現在では信じられないでしょうが、この当時は東北大と九大はライバルといってもいいくらいの力関係でした。

因みにこの大会では、総当たりが終わったあとに3位と2位のチームが対戦、次にその勝者と1位が対戦して優勝を決めるという、プロ野球のクライマックスシリーズみたいな事が行われました。ただ団体戦の結果を見てもわかるように、3位と2位、2位と1位の差がそれぞれ大きく、ここでの下剋上はありませんでした。

なおこの翌日には、各大学のOBや親交のある他大学にも声をかけて、オープン戦も行われました。今でもたまに行われるオープン戦やOB戦は、第一回の時点で行われていたのです。

大盛況で終了した第一回相撲七大戦ですが、その年の夏の会議を経て、まずはオープン競技という扱いながら、総合体育大会への参加が認められました。翌年からは総合体育大会と同じ時期、同じ主管校で行われる事となりました。

続く

2015年7月19日日曜日

七大戦の話

七大戦とは

正式名称を全国七大学総合体育大会といい、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の旧帝國七大学によって行われる総合体育大会です。第一回は、1962年に北海道大学の主管で行われました。

七大戦における相撲競技

七大戦に競技が採用されるためには、7大学中5大学で当該競技を行う、各大学体育会公認の団体がある必要があります(相撲が採用される時はそうでした。現時点では変わっているかもしれません)。七大戦において相撲が初めて行われたのが2001年。それ以前は、東大、京大、東北大、九大の4大学しか相撲部がなかったので、七大戦には参加できませんでした。また、毎年5月に国公立戦があり、七大学に該当する大学は国公立戦にも出場するので、あえて別に行うこともないのではないかという意見もあったように思います。

この流れが変わったのが2000年。この年、名古屋大学に相撲部が設立されました(名大には戦前に相撲部があったらしく、正確に言うと復活ということになります)。この名大が音頭を取る形で、相撲も七大戦をやろうという機運が高まり、2001年第一回が行われました。この時点では、総合体育大会へはまだ参加しておらず、独自で行われた大会でした。この年の総合体育大会は東大が主管だったのですが、このような経緯から、この大会は名大主管で行われました。第二回大会から、総合体育大会に採用され(オープン参加→2008年に正式種目化)、総合体育大会と同じ大学の主管で行われることとなりました。

出場資格

原則初出場から4年間(医学部等は6年間)までという制限があります。1年次に入部していれば4年生までしか出られませんが、例えば3年から入部の場合は、大学院進学や留年などにより大学にとどまっていれば、4年生が終わっても、あと2年出場できるというわけです。ただし、団体戦(5人制)に出場するための最低限必要な人数(3人)に足りない場合に、大学に残っているOB(大学院や留年により)に限り出場できる救済措置があります(部員が2人しかいない場合はOB1人、部員が1人の時はOB2人の出場が可能)。この場合出場できるのは団体戦だけで、個人戦はエントリーできません。

この規定がいつからできたのか、筆者は正確には覚えていませんが、私は第1回から3回まで選手として出場しましたが、このうち第2回と3回は、上記で言うところのOB枠だったのですが、個人戦にも出場しました。しかし、第3回終了直後の会議で、私が個人戦に出場したことで少々揉めた記憶があるので、第3回の時点で規定はあったのかもしれません。

また途中、OB枠の扱いが緩くなって、部員が5人に満たない大学の5人目としてOBが出場したケースもあったりしましたが、現在ではまた厳密になっている模様です。

なおこの規定は、相撲競技におけるもので、七大戦の他の競技に関しては、私はわかりません。

過去の記録


ご覧のように、初期は名古屋大学が他を圧倒、ついで東京大学が上位に入ることが多かったですが、近年では東北大学も上位に食い込むことが増え、現在は団体戦2連覇中です。

そして今年はその東北大学主管で行われます。

2015年7月11日土曜日

九州大学相撲部の話

九州大学相撲部は1994年、学生寮である田島寮の寮生が中心となって設立されました。今年で創部22年目です。筆者が入部したのは1998年、創部5年でした。当時は創部メンバーが院1年生として残っていましたが、現役部員は4年生が2人だけ、新入学生としては3年ぶりの新入部員でした。

私の同級生は、4月中にもう一人と、間があいて4年生に上がる直前にもう一人入部しました。後輩に関しては、私が2年生の時に新入学生が一人入部したもののすぐにやめてしまい、以後は私の現役時代は誰も入部しませんでした。2004年に、4年生や留学生が3人ほど入部しましたが、新入学生の新入部員が次に入るのは2006年でした。

つわものどもがゆめのあと 
 
こちらは私の先輩のブログ記事で、今から10年前の2005年に書かれたもの。記事には相撲部が消滅と記されていますが、これはちょっとした連絡の行き違いみたいなもので、実際には消滅しておりません。まあ、記事にある通り、存在しているかしていないんだかよく分からない状態ではありましたが。

上記ブログ内に2005年までの部員の推移が書かれていますので、2006年以降の推移を以下に示します。


院生の中には留年生(5年生)も含みます。2006年以降しばらくは毎年誰かしら新入生が入部していたのですが、2012年以降は、部員の友達や後輩を引き込む形で加わったメンバーはいるものの、新入生の入部は途切れてしまいました。

いくら部員が少なくても、核となる部員がいて部を回すことができればなんとかやっていけるものです。しかし、現在の部員は大学院生だけ。その役割を院生に望むのは酷だと思います。自分も経験がありますが、後輩ができないまま大学院に進学した後は、部員の勧誘もままならない状態でした。

しかし、私の時と違って、今は九大相撲部に部員が少なくても、福岡工業大学の相撲部のできましたし、福岡市の社会人メンバーの活動も活発ですので、稽古相手には困らないと思います。

九州大学相撲部、部員募集中です。

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