以前書いたとおり、相撲が七大戦に参加するきっかけは、2000年の名古屋大学相撲部の復活でした。この名大相撲部が音頭をとる形で相撲で七大戦を行うことになりました。2001年3月、名大相撲部が主管となり、まずは総合体育大会の七大戦とは別に独自で開催しました。
さて、実際に行われた相撲七大戦、とは言っても大阪大学には相撲部がなく、実際は六大学で行われました。また、北海道大学は正規の相撲部はなく、この時は学生寮の有志が集まっての参加でした。因みに北大は、このような形で国公立戦にもたまに出場しており、もともとそういった伝統というか気質というか、そのようなものがあったようです。その一方、主管の名古屋大学は、工学部のとある研究室のメンバーが集まってできたもので、この当時は大学院生中心ながら、20名以上の大所帯でエントリーしていました。
結果
名大は東大戦で1点取られた以外は全て5-0の完封勝利という圧勝劇。東大も、名大戦以外は5-0または4-1で他を圧倒。他の4大学は似たり寄ったりの成績でしたが、僅差で京大が3位に滑り込み。4位の北大、先に述べたとおりこの大会のために集められた急造相撲部でしたが、京大、東北大に勝ったりと健闘しました。東北と九大は、5人制の団体戦に3人で出場しており、まあそういう事です。これを書いている2015年現在では信じられないでしょうが、この当時は東北大と九大はライバルといってもいいくらいの力関係でした。
因みにこの大会では、総当たりが終わったあとに3位と2位のチームが対戦、次にその勝者と1位が対戦して優勝を決めるという、プロ野球のクライマックスシリーズみたいな事が行われました。ただ団体戦の結果を見てもわかるように、3位と2位、2位と1位の差がそれぞれ大きく、ここでの下剋上はありませんでした。
なおこの翌日には、各大学のOBや親交のある他大学にも声をかけて、オープン戦も行われました。今でもたまに行われるオープン戦やOB戦は、第一回の時点で行われていたのです。
大盛況で終了した第一回相撲七大戦ですが、その年の夏の会議を経て、まずはオープン競技という扱いながら、総合体育大会への参加が認められました。翌年からは総合体育大会と同じ時期、同じ主管校で行われる事となりました。
続く